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雑誌「muto(ミュート)」28号、本日発刊。
旅のはじまり、、、のコラム。

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muto編集部 岡浩行

mutoは今ご覧いただいているweb版以外に、福岡都市圏を中心に2万部を発行しているフリーマガジンです。
雑誌のコンセプトは、“好奇心を旅する雑誌”。本日、muto28号が発刊となりました。mutoのwebをご贔屓にしていただいている皆様へ、ご挨拶がわりに雑誌mutoの巻頭コラムをお届けします。

旅のこと、空気のこと、自由のこと、
(muto編集長 岡浩行)

人類が「旅」を始めたのはいつ頃のことだったのでしょう? どこかに行きたい、が不自由ないま、ふとそんな疑問が湧いてきました。
今から約7万年前に人類の移動は始まったといわれています。
アフリカを出た人類の一団は、アラビア半島を通りインドから東南アジア方面、東アジア、北アジア方面、そして中東、ヨーロッパの3方面にむかいました。ただそれは生存のための移動であって「旅」とは違う気もします。

機内から見た雲と海

「旅」=「観光」という言葉は、中国の古典「易経」に出てきます。
「観光之光(国の光を観す)」つまり、よその国を訪ね風土や文化を観て帰ってくるという意味でしょうか。
英語のtourism(ツーリズム)の語源は、ラテン語で陶芸に使う“ろくろ”を意味するtornus。まわる、やはり国々をまわって戻ってくるということなのでしょう。
では、旅する動機の起源は?
古代エジプト時代に人々が神殿を訪ねる巡礼の様子が古文書に残っているそうです。
その後、古代ギリシャやローマ時代には、保養や食、登山など「旅」に娯楽の要素も加わってきました。
近世ヨーロッパの時代になると交通網の発達で作家たちがこぞって旅に出かけ“旅行記”というジャンルが生まれました。
旅行記が広く人々の好奇心を駆り立てたのです。
日本での「旅」の歴史も古く、七世紀の仲哀天皇の妃・神功皇后は好んで温泉に行っていたという記録が残されています。
平安時代の中頃には、今の和歌山県から三重県にかかる熊野山への参拝「熊野詣」がはじまりました。
その後、室町から江戸時代にかけて過酷な岩山を巡礼する熊野詣より、比較的平坦な道をたどる「お伊勢参り」が爆発的な人気となりました。
ただ、江戸時代は、各藩に関所が設けられ、人々の移動の自由も制限されており、誰もが自由に旅に出られたわけではありませんでした。(お伊勢参りに関しては、特別に手形が発行されていたようです)。

壁の芸術作品と移動する人々

行きたいところに行く移動の自由とは、現代人がほんの最近手にした権利です。(もちろん今でも世界には移動の自由が強く制限されている人々がいます。)
それは、先人たちが苦労して勝ち取ってきたものだともいえます。
ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、冷戦時代の東ドイツで生まれました。(父親はプロテスタントの牧師、本人は理論物理学の博士号を持つ物理学者であり、敬虔なキリスト教徒でもある)
3月18日にドイツ国民に向けたメッセージが話題になりました。

私は保証します。旅行および移動の自由が苦労して勝ち取った権利であるという私のようなものにとっては、このような制限は絶対的に必要な場合のみ正当化されるものです。
そうしたことは民主主義社会において決して軽々しく、一時的であっても決められるべきではありません。
しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです。

満開の桜

それにしても、今年の桜は例年になく美しかった気がします。
お花見の喧騒がなく静かで澄んだ空気に包まれた福岡城跡の並木道を歩きながら見る満開の桜の美しさは格別でした。
まさに狂い咲きという言葉がぴったりで、狂おしいほど美しいとはこのことだと。
“散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき”
桜は散りぎわこそが美しいとあり、その後に続く、このつらい世の中で一体なにが長く変わらずにあることができようか、と歌われる気分はなんだか妙に心に沁みます。
微風にさえ耐えることができなく枝を離れた花びらが、はらりはらりと不確かな線形を描き宙を舞い、地に落ちる。

海外の街の様子

空気には、窒素と酸素だけはでなく、わずかな水滴やチリ状の物質(エーロゾル)の混ぜ物が含まれています。
混ぜ物は、地上千メートルぐらいまでの低層大気に多くあり、雨、雲、虹、ばい煙、花粉症、黄砂、PM2.5、温暖化などにはこの混ぜ物が関わっています。
降雨や降雪は、空気中の混ぜ物を洗い流す作用があり、雨上がりに街の景色や山々の輪郭がクリアに見えるのはこの空気中の混ぜ物が洗い流されているからです。
空気の中では物体のサイズが1mm以下だと重力によりゆっくり落下し、1ミクロン以下だと落下せずに浮遊します。
人々が自由に旅をするように、空気中の混ぜ物も自由に移動するのです。

先日、90歳を前にした映画監督のJ・L・ゴダールが、インスタグラムのライブでこう語りました。

ウイルスはコミュニケーションだ。ある種の鳥のように他人を必要とし、仲間の所に行き家の中に入ろうとする-

匂いも味もない、目視もできない1mmの100万分の1のウイルスが人類の日常を揺さぶっています。
地球上には、まだまだ私たちが知らない未知なる要素があふれているようです。
それらは時々暴れ出し、何かを捻じ曲げてしまいます。
感染の話しだけではなく、自然災害や気候変動なども想像します。
でも、未知なる問題を前にしても人間の見たい、知りたい、経験したい、という好奇心は消えて無くなりそうにありません
今はまだ、さまざまな行動に制限がありますが、どうぞお身体と自由を大切に。
そして、また「旅」に出る日がもどってきますように。

※本コラムの作成にあたり3月1日の京都新聞「天眼」にて掲載された、京都大学名誉教授で物理学者の佐藤文隆氏のエセー「空気への混ぜ物」を引用、参考にさせていただきました。

※3月18日のドイツ連邦共和国首相のアンゲラ・メルケルのスピーチ全文は、ドイツ連邦共和国大使館総領事館のHPにも掲載されています。(https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/politik/-/2331262)

※“散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき”は、伊勢物語第82段「渚の院」(作者不明)より。

※4月7日のJ・L・ゴダールのインスタグラムライブでの発言箇所の全文は以下の通りです。
「ウイルスはコミュニケーションだ。ある種の鳥のように他人を必要とし、仲間の所に行き家の中に入ろうとする。私たちがネットでメッセージを送る時のように。ウイルスは今私たちがしているようなコミュニケーションだ。それによって死ぬことはないが、うまく生き抜くことは恐らくできない」

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