”上野万太郎の「この人がいるからここに行く」”福岡の珈琲業界で51年間“本流の珈琲専門店”を目指し続ける吉留修二さん

公開日

上野万太郎

福岡を代表する人気ブロガー&ライターの上野万太郎さんの連載第3回。万太郎さん自ら惚れ込んだ”あの場所のこの人”を紹介する『上野万太郎の「この人がいるからここに行く」』。今回は、福岡珈琲界のレジェンド、「ぶんカフェ」の吉留修二さんを訪ねました。

僕が15年前から通っている自家焙煎珈琲専門店

福岡の珈琲業界で50年以上活躍し、現在も毎日珈琲を提供されている「ぶんカフェ」の吉留修二さん(72歳)。福岡珈琲レジェンドのひとりに数えられる人だ。

僕が最初に吉留さんに会ったのは15年前。現在は中央区警固のアパートの一室で隠れ家的に営業中だが、当時は博多駅南のビルの一階で営業されていた。吉留さんは、自家焙煎珈琲豆とネルドリップ抽出にこだわり、“本流の珈琲専門店”を目指し続ける珈琲職人である。
今回は、そんな吉留さんが珈琲業界に入った経緯から現在に至るまでの話を聞いてみた。

上野万太郎

吉留修二さん

珈琲業界に入る前

吉留さんは、1951年福岡県糟屋郡宇美町生まれの宇美町育ちだ。両親が鹿児島県出身だったので幼少の頃まで夏休みなどは祖母の家に預けられ鹿児島で過ごすことも多かった。

工業系の高校を卒業後、一般企業に就職をしたものの、高校時代にアルバイトをしていた建築設備工事会社の社長に誘われてその会社へ転職。元々得意だった図面描きなどで評価され、その後、数カ月間東京勤務でさらに技術習得をすることになる。しかし東京の通勤ラッシュにうんざり。東京は住める場所ではないなと思ったそうだ。
その後、福岡勤務に戻ったが、九州管内の現場を1年単位の長期で回ることになる。建設業界では仕事中以外の付き合いも大事だったので先輩や取引先と交流するために麻雀や酒も覚えた。仕事は順調にこなしていたが、下請け業者は元請け業者に、元請け業者は施主に対して気を使う状況にも疑問を感じるなど昭和のサラリーマンの宿命のような生活にちょっと限界を感じていた。

長崎市内の現場だった時に、合間を縫って喫茶店に通った時期があった。その喫茶店のマスターの働く姿を見ていると、世間のしがらみなど関係なく、目の前にいるお客さんに真摯に珈琲を提供する仕事ぶり。媚びへつらうこともなく、マスターと客が対等に見える関係性がとても素敵に見えた。
吉留さんは「あ~、こういう仕事がしてみたい。自分にはこれが合っていると思う」と確信したそうだ。

上野万太郎

「珈琲舎のだ」への転職

福岡の現場に戻った後、たまたま見つけた「珈琲舎のだ」の社員募集の記事。これに応募したところ採用され珈琲業界に入ることになった。1972年、吉留さんが21歳の時だった。
「珈琲舎のだ」は1966年に博多区対馬小路に「喫茶アイドル」として開業、1970年に博多駅前の福岡朝日ビル2階に「珈琲舎のだ」としてオープンしていた。吉留さんが入ったのはその2年後のことだ。

「珈琲舎のだ」はサイフォン抽出専門店として現在まで続く博多の老舗珈琲店である。当時の喫茶店と言えばサイフォン抽出が主流だった。メニューは珈琲以外にもサンドイッチやホットドッグ、モーニングサービスなどがあった。決して楽な仕事ではなかったが、珈琲のことをイチから教わった。数年後、仕事ぶりが認められ、天神にあったマツヤレディス店がオープンした時は店長に次ぐチーフとして抜擢された。

自家焙煎珈琲への取り組み

吉留さんはもっと珈琲について勉強したいと思うようになり、「珈琲舎のだ」が珈琲豆を仕入れていた「トーホーコーヒー」の焙煎工場へ「焙煎について勉強させて欲しい!!」と個人的に申し出たそうだ。「珈琲舎のだ」は当時、自家焙煎をしていなかったが、将来的にもっと本格的な珈琲専門店になるには自家焙煎は必須だ、と吉留さんは考えたらしい。当時中央区清川のアパートに住んでいた吉留さんだったが、「トーホーコーヒー」があった東区松島に引っ越しまでして仕事前の時間や休日を利用して通ったというからその本気度が伺える。

そんな生活が数年間続いた。すると焙煎に関わることによってさらに珈琲のことが分かるようになった。そうやってますます珈琲の魅力にハマっていったそうだ。

ある日「珈琲舎のだ」の社長に焙煎機の導入を勧めた。7店舗を有する珈琲店になっていた「珈琲舎のだ」なのですべてを自家焙煎にするのは規模的に難しかったが、焙煎を勉強することでスタッフの珈琲に対する見識が深くなることは間違いなく、珈琲店としてのレベルが上がると吉留さんは考えたのだ。
吉留さんの意見が通り、「珈琲舎のだ」は大名店などに焙煎機を3台設置して一部自家焙煎珈琲も始めることになった。

「珈琲美美」の故・森光宗男さんとの出会い

珈琲豆の焙煎などを通じてさらに本格的な珈琲専門店としての方向性を考えていた頃、「珈琲美美」の故・森光宗男さんと出会った。森光さんは「珈琲で九州を盛り上げたい」として日本コーヒー文化学会の九州支部を立ち上げ、その後も福岡の珈琲業界に多大なる貢献をした人だ。

吉留さんは森光さんに賛同して支部の仕事も手伝い始めた。九州の本格的な珈琲専門店を回って活動参加を呼び掛けたり、森光さんたちと一緒にイエメンに珈琲豆の産地視察に行ったりもした。この活動もゆくゆくは「珈琲舎のだ」のためにもなると信じていた。

その頃から吉留さんが感じていたのが、“本流の珈琲専門店”とはどういうものか、ということだった。当時日本で珈琲専門店の御三家と呼ばれていたのは、東京銀座「カフェ・ド・ランブル」の関口さん、東京吉祥寺「モカ」の標(しめぎ)さん、東京台東区「カフェ・バッハ」の田口さんだ。彼らが日本独特の珈琲文化を確立していた。そしてその共通点は、「自家焙煎、ネルドリップ抽出、一杯たて」であることだった。

吉留さんは「珈琲舎のだ」が新しくニューオータニ博多にあるショッピングアーケード「サンローゼ博多」に出店するという機会に社長に「自家焙煎豆を使ったネルドリップの店をさせて欲しい」と直訴した。

その提案が通り、サイフォン抽出の店として有名だった「珈琲舎のだ」だったが、このサンローゼ店だけはネルドリップの店としてオープンした。9坪ほどの狭い店で一杯だてでまかなわれ、まさに吉留さんが目指す“本流の珈琲専門店”に近いものが出来上がった気がした。
吉留さんはここの店長としてしばらく働いた後34年間勤務した「珈琲舎のだ」を退職することを決意した。

「とりあえず『珈琲舎のだ』ではやれることはやった。会社も大きくなり、長年後進の指導にも携わってきたので、あとは育てて来た後輩や部下に任せて、自分は自分のやりたいことをやらせてもらおうと思い、退職して独立することにしたんです」。吉留さんが54歳の時だった。

「ぶんカフェ」開業

2005年「ぶんカフェ」を博多駅南に開業。最初の店は筑紫通沿いに建つビルの1階にあった。カウンター5席とテーブル席がいくつかあってゆっくりと時間が流れるまさに「ザ・喫茶店」然としていた。入口には煙突をビルの外に突き上げた大きな焙煎機が設置されていた。

僕の事務所からも近かったのでお昼に時々休憩に寄っていた。カウンターの中に立ってネルドリップで珈琲を淹れる吉留さんは蝶ネクタイ姿が印象的だった。まだ40代だった僕は吉留さんの抽出中の神々しい姿に、その間だけは話しかけるのをやめ、ネルの中で珈琲豆がふっくらと膨らむのを息をひそめて見ていた。吉留さんの身体の周りには、心地良い緊張感がピーン!!と張りつめた空間が出来上がるのだ。

目の前でそんな集中力で淹れられた珈琲が美味しくないわけがない。「ぶんカフェ」には吉留さんの一杯入魂とでも言える珈琲を飲みにくるお客さんがたくさんいた。

店名の「ぶん」というのはどういう意味だろうと吉留さんに以前聞いたことがある。「イエメンに行った時に現地の人たちがうるさいくらいに『ぶん!ぶん!』と喋っているので何だろうと思ったら『珈琲』という意味だったんですよ」とのこと。ということは、「ぶんカフェ」の意味は「珈琲喫茶店」ってことか。

上野万太郎

博多駅南にあった最初の「ぶんカフェ」時代

警固のアパートに移転

開業から14年が経った頃、入居しているビルが建て替えられるということで「ぶんカフェ」は退去を余儀なくされた。そして2019年10月「ぶんカフェ」は一旦閉店。その後、知り合いの店を借りての間借り営業を経て、2020年12月に現在の中央区警固のアパートの1室での「ぶんカフェ」再開ということになった。

上野万太郎
上野万太郎

もちろん、ここでも自家焙煎珈琲豆、ネルドリップ抽出の一杯だてという吉留さんが考える“本流の珈琲専門店”を続けることになる。70歳を越えた吉留さんは「ここが最後の店になるやろうけん、小さな店に珈琲を飲みに来てくれるお客さんと1日でも楽しい日々を送れるように頑張りますよ」という。「何十年も来てくれるお客さんがいるからね、この場所は1日でも長く続けたいよね」と。まさに僕もそんな客の一人だ。

上野万太郎
上野万太郎

最近は昔、森光さんたちと行ったイエメンの珈琲豆に特に思い入れを込めているそうだ。イエメン・モカ(イブラヒム)という名前で提供している珈琲は、イエメン国から輸出される希少豆。原種に近い品種でエチオピアよりも小粒。ネルドリップと言えば深煎りのイメージが強いが、吉留さんはこれを中煎りで焙煎して酸味は少なく複雑な甘みを感じる豆の味を楽しんでもらってるとのこと。

イエメンモカコーヒーがデザインされた袋

マンネリズムを恐れるな

最後に後進の若者に何か伝えたいことはありますか?と聞いてみた。すぐさま返事が来たのが「マンネリズムを恐れるな」ということだった。

「昭和のころ、若い職人は下積み時代に同じ作業を繰り返すことや単純作業の量をこなすことばかりをさせられていたよね。現代の若者だったら、『こんな同じことばかりずっとさせられていたら、いつになったらメインの仕事をさせてもらえるのかわからん』とか言いながら会社を辞めていく人が多い印象がある」と吉留さんはいう。

「量をこなすことにより、質は上がるものだと思う」と吉留さん。マンネリズムの先にこそ高い位置から広く見えて来る世界があるということだろう。僕も同感だ。継続は力なり、とか簡単に得たものは簡単に離れていくとかよく聞くが、日々の繰り返しの中からこそ将来的にしっかりと身につくものがあると思う。

2012年に僕が書いた『福岡カフェ散歩』で「ぶんカフェ」を取材した時に聞いた一番印象的な一言、「珈琲に携わることに飽きない」、これが吉留さんの信条だった。7年後、博多駅南での営業が終了する時に吉留さんに聞いたのだが、「それは今でも変わらないよ。これからもカウンターに立てる限り自家焙煎豆を使ったネルドリップ珈琲を提供していきたい」と言われていた。「飽きないこと」、それも「マンネリズムを恐れない」と同じ意味かもしれない。

それからさらに4年経った現在、今回の取材で最後に聞いた吉留さんの考え方や生き方はまったく変わっていなかった。まさに珈琲一筋、一杯入魂。吉留さんからしても先輩にあたる日本の珈琲業界の諸先輩がそうであったように、吉留さんの姿は次の世代の珈琲業界や珈琲好きな人たちの人生に影響を与えているに違いない。世の中に何かを残すということはこういうことなのだろうと思う。

「マンネリズムを恐れるな」
吉留さんのような人生を送った人から言われると、心に響くのだ。

上野万太郎

INFORMATION

店名

ぶんカフェ

代表

吉留修二

業種

珈琲専門店、自家焙煎珈琲豆の販売

住所

福岡市中央区警固1-3-6 コーポ警固203号室

開店時間

11:00~17:30

店休

火・水曜

席数

5

メニュー

芳ブレンド450円、爽ブレンド450円、奥ブレンド500円、イエメン・モカ(イブラヒム)600円

関連記事