
住む憧れ「グランドメゾン」の人気の理由。

公開日
上野万太郎
福岡を代表する人気ブロガー&ライターの上野万太郎さんの連載人気企画。万太郎さん自ら惚れ込んだ”あの場所のこの人”を紹介する『上野万太郎の「この人がいるからここに行く」』今回は、久山」町を愛し自然を愛すカメラマン中山淳平さんのお話し
2年前の夏の日曜日。久山町猪野にある伊野神社千人館で開催されていた「ひさやま写真館」主催の“投げ銭”写真撮影会に行きました。久山町に移住して写真館を開業している「ひさやま写真館」の中山淳平さん。SNSでは繋がっていたけど会うのはその時が初めてでした。
中山さんは、フリーのカメラマンとして撮影の仕事をするだけでなく、久山町で町おこしやボランティア活動などを通して人々と一緒に幸せになる夢を追いかけている人です。「元々は雪山が大好きなスノーボーダーだったんですよ。それが今は山や川や畑に囲まれて写真館をしながらここ久山町で家族と一緒に田舎暮らしを楽しんでいます」と屈託のない笑顔を見せる。スノーボーダーから田舎暮らしのカメラマンへ。彼の人生に何があってそこにたどり着いているのか一度聞いてみたいと思い「muto」で取材させてもらうことにしました。

1983年福岡市東区に生まれた中山淳平さん。高校卒業後は公務員になるための専門学校に進学。しかし公務員試験に落ちて就職を断念。それから彼の楽しい人生がスタートしたようです。ここからはいつも呼んでいるように“淳平さん”と書かせてもらいます。
― 公務員への就職には失敗したそうですが、それからどうなりました?
淳平さん どうしても公務員になりたかったわけでもなかったので親に「30歳までは好きなことする」と伝えて福岡市内のサーフショップ「RADIX FUKUOKA」で働きました。そこではスノーボードも販売していたのですが、それにハマってしまいましたね。それからアルバイトでお金を貯めては雪山に入ってスノーボードばかりする生活を繰り返していました。
― スノーボードはどこに行かれていたのですか?
淳平さん 新潟県や北海道へ行っていました。そのうち知り合いのカメラマンが撮影させて欲しいというので、滑っている姿を動画で撮影して、それをスポンサーに売込んだりしていました。スポンサーに認められると道具提供を受けられるようになるんです。いわゆるセミプロなのですが、それに憧れて真剣にやっていましたよ。だから怪我することもあって、最後に大怪我して引退することになりました。
― どんな怪我をされたのですか?
淳平さん 膝の前十字靭帯を3回断裂して手術、入院を3度繰り返しています。手術からスポーツ復帰するまでには半年ほどかかるのですが、3度目はさすがに将来歩行困難になってしまう事など色々と考えて引退しました。周りからは『ガラスの膝』と言われています(笑)

photo 山口陽平
― 命がけのスポーツですね。それから就職ですか。
淳平さん 怪我したのがちょうど30歳だったのでそろそろ仕事をちゃんとしようと思ったのですが、スノーボードの写真を撮ってくれていたカメラマンから「カメラマンの仕事を紹介するから一緒に仕事しようよ」と誘われたんです。スノーボードが出来なくなって、これからの人生何をして生きて行こか?と迷いっていた時に友人の紹介で富士山の山小屋で働くの事になりました。登山シーズンの夏山で2年間働きました。写真の勉強をした事もなく、カメラマンの仕事をするか悩んでいる時期で35mmと中判のフィルムカメラを持ち込んで働きながら写真を撮りました。働いていた山小屋は9合目標高3700mの世界で自然の美しさと厳しさ、写真の面白さを体験する貴重な経験でした。
スノーボード以上に楽しいモノは無いと思っていましたが、写真には正解がなく終わりがない。ずっと続けていけると思いカメラマンの道へ進む事を決めました。それからトヨタの自動車工場の期間工をしてお金を貯めて、カメラの機材一式を購入しました。中古ですけどね。



― 久山町に引っ越しされたのもちょうどその頃だとか?
淳平さん はい、久山町に家族で引っ越したのはスノーボーダーを引退した頃ですね。知り合いの紹介で久山町移住を考えました。自然のある環境で子どもたちを育てたかったし、僕の実家が東区で妻の実家が田川市だったのでちょうど真ん中くらいで便利かなと思いました。トヨタの工場が宮若町で通勤範囲だったこともありましたね。
― しかしいきなりカメラマンですか。誰かの助手として修業したりとかは?
淳平さん 修業はしませんでしたが、カメラマンの友達にいろいろ指導はしてもらいました。無給でウエディング撮影に同行して、撮影から納品までを勉強させてもらいました。半年で100件くらいの撮影に同行させてくれました。仕事を教えてくれる友人がいるというのがとてもありがたかったです。その後、ひとり立ちしてウエディング写真のフリーカメラマンとしてデビューしました。
― 今までの経験が生かされたこともあったとか。
淳平さん 何年もスノーボーダーとして撮られていたので、こういう瞬間やこういうアングルで撮ったら良い写真が撮れるみたいなことが自然と分かっていたとは思います。それとずっとショップ店員として接客業をしていたので、人と話をするのは得意でしたので、すんなりと人物撮影は出来ましたね。撮影技術は勉強すればなんとかなる気はしますが、何年もやってみて今思うのは人物撮影にはコミュニケーション力が一番重要だと思っています。そこに苦労が無かったのが一番カメラマンの仕事に入り易かった点です。
― 難しいこともあったでしょうね。
淳平さん 1日で数千枚撮影して、データを整理して数百枚を納品するというハードな仕事ですからカメラマンを始めた頃の自分には特訓にはなったと思います。しかし新郎新婦さんと当日会って挨拶程度のお話をしただけで撮影するので気持ちが入りにくいし、作業量の割に単価は安いし、その後のリピート顧客につながることが難しいのでなかなか厳しい仕事でしたね。
― コロナ禍に入って結婚式自体が激減したので影響が多かったことでしょう。
淳平さん ウエディング仕事は激減しましたね。それ以外のイベントも無くなりましたから仕事は激減ですね。それからいろいろ考えましたね。その頃に「ひさやま写真館」というものを命名しました。まだ写真館は作ってなかったのですが、Instagramでアカウントだけを作って、写真館としての仕事情報の発信を開始しました。そして今住んでいる久山町にもっと目を向けるようになりました。伊野神社のこと、久山町の自然のこと、自治体のこと、祭りのこと、歴史のこと、地元企業のこと、ここに生まれて亡くなっていく人たちのこと。そして2年半くらい前に自宅の一部に写真館を作りました。

― ウエディング写真のころと仕事の方向性は変わりましたね。
淳平さん 知りあいの紹介などで僕のことを知って撮影を依頼しくださる方とはしっかりコミュニケーションを取ってどんな写真を創り上げようかと打ち合わせができますしね。七五三や成人式や家族の記念写真などで仕事をさせてもらったほうが後につながる関係性が出来るので楽しいです。何かしらの記念日に何度も撮っているご家族もおられます。特に写真館を開設したことにより、個人のお客さんや地元にしっかりつながった仕事を意識するするようになりました。
― 外で撮影することと写真館に来てもらって撮影することはどちらが多いですか。
淳平さん 僕が外に出て行くことの方が多いです。写真館の撮影もそれは綺麗にしっかり撮れますが、やはり記念写真には“現場”が大事だと思うので現場に出向くことが多いです。




― 淳平さんがカフェやイベント会場に出向いて出張写真館を開催されていますね。
淳平さん はい。出張写真館へこちらから出向いて行くことは新しいお客様を掴むことにもなります。カフェやイベントの主催者さんとの関係性も大事にしています。例えばそのカフェの店長さんの想いがしっかりしているイベントには毎回その現場でしか会わない人なのに毎年ご家族で記念写真を撮りに来てくださる方もいらっしゃるんです。それは僕の力だけでなくてそのカフェとお客様の関係性が日頃からしっかりしているからこそと思うんです。そういうカフェとの関係性とは今後もずっと大事にしていきたいと思っています。
― カメラマンとしての仕事は今後どんな分野に広げたいですか。
淳平さん 基本的には、引き続き地元重視、個人客重視で頑張ってい行きますが、企業様の仕事としてホームページ、会社案内、カタログ用の撮影の仕事にも取り組みたいです。地元の学校や幼稚園などの仕事へも取り組みたいですね。
― カメラマンの仕事との相性は?
淳平さん 僕は基本的に飽き性なんですよ。ある程度仕事してなんとなく分かってくると飽きることが多いのですが、写真は正解がないし毎回違う結果が得られるのでまだまだ飽きそうにはないですね。


― 話はちょっと変わりますが、淳平さんの現在の考え方の基礎には「パタゴニア」で働いた時に得たことが教訓になっていると聞きましたが。
淳平さん そうなんです。カメラマンになった頃から数年前まで「パタゴニア」というアウトドアウエアメーカーでも働いていたんです。「パタゴニア」は、良い品質のウエアを作りながらも、地球環境に出来るだけ悪影響を与えないことを最重要とする「故郷である地球を救うためにビジネスを営む」という基本理念として経営をおこなっている会社なのです。元々その考え方が好きで働きはじめたのですが、働いてみてさらにその考えと企業行動に共感しました。
― それが今の淳平さんの現在の活動にもつながっているということですね。
淳平さん 久山町の町づくりは数十年前から続いて来た行政の力でもあると思いますが、50年前くらいの昭和の日本がしっかり残っている地域だと思うんです。近所やお隣さんだけでなく地域のコミュニティがしっかり残っているんです。例えば夏祭りや獅子舞や綱引きなど昔から伝わる神事など、福岡市内ではなかなか目に出来ない行事がたくさん残っています。そして一番すごいのはそれらの活動に何の疑問も持たずに代々伝わる大切な伝統の継承として受け止めている人がほとんどなんです。今は時代の変わり目だと思います。僕にとって素晴らしいと思うようなことがしっかり残っているうちにそれを後世に残したいと思っています。「ひさやま写真館」は、久山町の今を残していくための一つのツールであり屋号だと思っています。僕がいなくなっても誰かにこれを引き継いでもらってずっと続いて行って欲しいと思っています。




― 具体的には淳平さんは久山町でどんな活動をしているのでしょうか。
淳平さん いくつかの活動に参加しています。一つは、米作りです。田んぼを借りて4年前から自分たちで米つくりをしています。現在4軒で年間の自家消費用分は生産できるようになりました。二つ目は、久山町初の地酒プロジェクトです。地元つながりの4人のメンバーで「our sake」というブランドで商品化しています。酒用の山田錦の米つくりから始め、販売は「とどろき酒店」(福岡市博多区)など一部の店舗で販売しています。酒の販売から得た利益の一部は久山町の新たな観光資源の創設の資金にも充てられています。三つめは林業の伐採活動への参加です。このために高知県に20日間の林業研修にも行ってきました。財産区という特別地方公共団体の活動に参加して地元の林野の維持活動にも参加しています。
― お話をお聞きしているとカメラマンという立場だけでなく、久山町民という立場としての活動が中心で、その中に地元を記録するカメラマンという役割を担っている印象ですね。
淳平さん そうかもしれません。その辺の考え方も根底には「パタゴニア」精神が流れている気がします。「パタゴニア」のすごいことは理想を掲げるだけでなくそれを経済活動として成立させていることです。「ひさやま写真館」の目指すところは、それに似ていると思います。
― 今後の「ひさやま写真館」についての展望はいかがでしょうか。
淳平さん 50年続く「ひさやま写真館」でありたいので、僕がいなくても町に溶けこんで誰かがこの活動を引き継いで欲しいと思いながら活動しています。とにかくカメラマンの仕事を通して町の役に立ちたいというのが一番ですね。そろそろカメラマンというより写真家として久山町の風景撮影にも取り組んでいこうと思っています。町の景色や人物、文化を記録すること、それが僕がここに住んでいる意味だと思っています。
― 他に今後の計画などはありますか。
淳平さん 林業に関わることで未利用材という使われない木材があるのを知りました。それを使った工芸品などを作る木工作家などに憧れますね。
― とっても似合うと思いますよ。20年後くらいに写真館の縁側に座って一生懸命に木を削っている淳平さんの姿が目に浮かびます。
淳平さん 久山町は都会の人から見たら閉鎖的な町に映るかもしれませんが中に入ると、とても温かい人情味あふれる町です。山、川、畑、田、ホタルや鹿、この自然はしっかりと守りながら後世につなぎたいと思います。昔、久山町町長で全国的に有名な小早川町長という方がおられたんのですが、「建物は金があればいつでも建てられる。しかし、山や川、自然は一度壊してしまったら、金を出しても二度と元には戻らない」というような言葉を残されています。僕はこの精神にとても共鳴しています。これからもさらに、カメラマンとして山を林を川を田を、そしてみんなの笑顔を撮影していきたいと思っています。
― 久山町には僕も共通の知り合いでとても地元を愛しながら町に貢献する事業をされている人達がいます。今回、淳平さんの話を聞かせてもらい、周りのみんなの話を聞けたような気がしました。みんな久山町が大好きなんですね。そんな想いがある淳平さんが撮る写真だからこそ、素敵な笑顔が表れるのだと思います。これからも町を愛し人を愛しみんなが笑顔になるような活動を頑張ってください。今日はありがとうございました。
店名:ひさやま写真館
住所:福岡県糟屋郡久山町猪野656-1
TEL.080-1720-6541
instagram ひさやま写真館©︎


冊子版mutoの紹介