一枚の風呂敷で、困難を笑い飛ばす人間の強さを表現すると共に、衣服の原点・起源をも指し示した作者の力。『きもの』著:幸田文

公開日

muto編集部

明治時代の終りに東京の下町に生れたるつ子は、あくまできものの着心地にこだわる利かん気の少女。大正期の女の半生をきものに寄せて描いた自伝的作品。著者最後の長編小説。

『きもの』著:幸田文

いまの人は幸田文を読むのだろうか。彼女の文章は読みやすく分かりやすく、情景がいきいきと目の前に広がる。好きな作家のひとりである。

時は大正、東京下町。三人の女が袖の破れた着物を囲んでいる冒頭のシーン。なにが起きたのだろう。わくわくする。その三人とは、るつ子とその母、祖母。着物の肩のあたりが「はばったくて」るつ子が破いてしまったのだった。主人公のるつ子はこだわりが強く、頑固者で、一度決めたら我慢強くやり通す芯の強い女の子。彼女が学校に通い、成長して家を出るまでのお話。

そこにはいつも着物(和服がほとんどだが、それ以外の「着る物」も)の思い出があった。学校でできた初めての友達(世が世なら「おひい様」)の家で自転車に乗る練習中、堀に落ちた時に守ってくれた体操着。上の姉と中の姉の婚礼衣装。病気の母のための布団を子供の頃の着物のお古で作ったこと。
そして大正12年9月1日。関東大震災がるつ子たちを襲う。命からがら祖母と避難する様子は体験した者にしか書けないリアルな臨場感がある。なんとか助かって八百屋の2階へ仮住まい。自宅は火事で燃え着るものも何もありはしない。おばあさんは唐草模様の風呂敷で作った「アッパッパ」を着た。すこし長いが本文を抜粋する。

“これはまた、なんというおばあさんなのだろう。想像しても、ほんとはみじめな事柄なのだ。青唐草の袋みたいなものを着て、細く痩せた手足をだしている老婆なのである。気がふれたような恰好というほかない。それでもきっとおばあさんは、敢然として着たのだろうし、決してしょぼくれるようなことはなく、誰より先に自分がおかしがっていたに相違ない。思いついたとなると、明るく、こだわりがなく、けろりとしている人柄だった。(中略)肌をかくせればそれでいい、寒さをしのげればそれでいい、なおその上に洗い替えの予備がひと揃いあればこの上ないのである。ここが着るものの一番はじめの出発点ともいうべきところ、これ以下では苦になり、これ以上なら楽と考えなければちがう。やっと、着るということの底がじかにわかった思いだが、これを納得したのは下町総舐めのこの大火事にあったおかげなのだ。”

幸田文

一枚の風呂敷で、困難を笑い飛ばす人間の強さを表現すると共に、衣服の原点・起源をも指し示した作者の力。上の姉の美しい花嫁衣裳から、震災で焼け出されたあとの風呂敷アッパッパまで、人が着るものを幅広く網羅した、第一級の着物小説なのである。

著者:プロフィール

幸田文
(1904-1990)東京生れ。幸田露伴次女。1928(昭和3)年、清酒問屋に嫁ぐも、十年後に離婚、娘を連れて晩年の父のもとに帰る。露伴の没後、父を追憶する文章を続けて発表、たちまち注目されるところとなり、1954年の『黒い裾』により読売文学賞を受賞。1956年の『流れる』は新潮社文学賞、日本芸術院賞の両賞を得た。他の作品に『闘』(女流文学賞)『父・こんなこと』『おとうと』『台所のおと』『きもの』『木』『雀の手帖』『崩れ』『包む』など。

INFORMATION

書名

きもの

著者

幸田文

出版社

新潮社

価格

¥852(税込)

ISBNコード

978-4-10-111608-2

[テキスト/奥原未樹子]
1977年福岡県生まれ。2003年よりリブロ西新店勤務。2011年よりリブロ福岡天神店勤務。2021年より文喫福岡天神にて文芸書を担当。

関連記事