住む憧れ「グランドメゾン」の人気の理由。
muto新シリーズ『名著私的巡礼』では、港に溢れる新刊本ではなく、かつて”名著”と呼ばれた作品を読み直すシリーズです。本は消費物にあらず、読み、語り続けられるものだと信じ皆様に私的名著をお届けします。
音楽評論家の言葉を聴こう
政治、経済、国際情勢、映画、音楽、文学、アニメ、漫画、スポーツ・・・。様々なジャンルの知見を広める上でその筋に長けた専門家、信頼できる書き手を知っていることは有意義なことだと思うのです。
特に昨今のフェイクニュースの問題や似非専門家が垂れ流す非論理的考察、検証不可能な妄想に付き合わされそうになるとき、ダークサイドに自身が引きずり込まれないためにも、このジャンルはこの人という存在は頼りになります。
今回は音楽評論のお話し。
かつてインターネットがなかった頃、好きなミュージシャンの新譜情報やインタビューが読めるメディアはほぼ音楽雑誌のみでした。音楽雑誌には、たくさんの書き手がいました。音楽評論を読み、レコード(CD)を買い、抱き締めるように家に帰り、最愛の人から届いた手紙の封を開けるようにPLAYボタンを押したものです。
当時の私は、例えばクラシック音楽では、なんといっても吉田秀和先生の著書を教科書として読み、浅田彰氏からは、グレン・グールドとピエール・ブーレーズの偉大さを教わり、マーラーやブラームスなんぞ聴く必要なし、と影響を受けたものです。(今では聴きますよ、たまに)
ポップスやロックだと、ミュージックマガジンの荻原健太氏、ロッキングオンの渋谷陽一氏の両巨頭とピーター・バラカンが王道でしょうか。
そんな音楽批評界もネット出現以来、今では活気がないようです。
このmutoにも書評を書いてくださっているリブロプラスの野上さんと数年前に雑談していた時に「雑誌の売れ行きは悲惨な状態ですが、特に音楽雑誌の衰退は激しい。ネットに取って変わった最大の被害者は音楽雑誌、特に音楽批評でしょうね」という会話をしたことを覚えています。
確かに、新譜情報や贔屓にしている音楽家のインタビューなんかは検索で事足りますね。
そもそも音楽批評なるものをめっきり読まなくなりました。
批評を読む前にサブスクで、はい次!はい次の曲!とクリックしているもんな〜。
かつて(20年〜30年前)、まだ音楽批評家の言葉を道しるべに音楽を聴いていた頃、ジャズでいえば、特にマイルス・デイヴィスという巨人については、中山康樹という音楽評論家が他を寄せ付けない立ち位置にいたと思います。
なんせ、マイルス本人とも話せる間柄だったという抜群の有利性。
中山康樹はジャズ批評がメインでしたが、ほかにもビートルズ、ビーチボーイズ、ローリングストーンズなどポピュラーミュージックにも造詣が深く、
そこで、この「ボブ・ディラン解体新書」です。
中山康樹は、2015年、62歳でこの世を去ってしまうのですが、「ボブ・ディラン解体新書」の初出は1984年。
当時、私はこの本を発売直後に買った気がします。
この手の本を買う時に期待するのは、読みながら、あるいは読んだ後すぐにそこに書かれているアーティストの音楽を聴きたくなること。自分の音楽の気分をそっちに持っていってくれることが期待されます。
つまり、当時の私は”ボブ・ディランな気分”になりたかったわけです。
しかし、「ボブ・ディラン解体新書」は、違った。
この本は、ボブ・ディランの華麗なる略歴(ポピュラーミュージック界最高の詩人、稀代の音楽家、フォークのカリスマからロックへの伝説的な転身)がトレースされているのではなく、今もなお現役の偉大なレジェンドであるボブ・ディランのペテン師性、自己愛、虚像に満ちた確信的なセルフプロモーションのトリックをことごとく解体していく本なのです。
ボブ・ディランほど伝説の多いミュージシャンはいないーーーとディランの支持者・擁護派・批評性を忘れた音楽評論家は口をそろえて言う。たしかにそのとおりかもしれない。そして、それはそうだろうと思う。ディラン本人が伝説の種を蒔き、支持者や擁護派が水をやり、再読や検証作業を放棄した評論家が日の当たる場所に持ち出し、すなわちディランにおける「伝説」とは、ディランと彼らの共犯関係で成立している一面がある。(「ボブ・ディラン解体新書」より)
有名なエピソードでいえば、今も伝説として語り継がれる「ブーイング事件」。
伝説はこうです。1965年、当時、「ライク・ア・ローリングストーン」が発売されヒットチャートを駆け上っていた頃、ニューポート・フォーク・フェスティバルのステージに立ったボブ・ディラン。フォーク界のスター、ボブ・ディランが事もあろうにエレクトリックギターを引っさげロックバンドを従えて演奏を始めた。フォークの神がロックを?!怒ったファンは、ブーイングの嵐を起こした、治らないファンの怒りにボブ・ディランは3曲を終えた後に一度ステージを降り、泣きながらフォークギターを抱えて戻り「イッツ・オーバー・ナウ・ベイビー・ブルー」を歌ったというもの。
しかし、本当の事態は違ったものでした。
ファンのブーイングは、エレキギターとロックバンドを従えて登場しボブ・ディランが演奏したことに向けられてものではありませんでした。即席で作ったバンドのレパートリーが3曲しかなかったため、ボブ・ディランを聴きにきた観客が3曲を歌って引き上げるボブ・ディランのステージの短さに怒りのブーイングを放ったのです。その後、他にバンドとして演れる曲がなかったために、一度ステージを降りたボブ・ディランがフォークギターを抱えて再度登場したのでした。
そのほかにも、ボブ.・ディランを巡っていつも指摘される”度を超えた引用”などの顛末が本書では綴られる。
思わず読者は、「中山さん、あなたはボブ・ディランが好きではないのですか? 」と問いただしたくなる内容です。帰ってくる答えは、「いいえ好きです!」のはず。
中山康樹は、熱狂的といってもいいボブ・ディランファンであるのです。
ファンであるがゆえに見えてくるその虚偽性をひとつひとつ解き明かしていく。つまりここでの中山康樹の姿勢は、私という主観をカッコに入れて語る対象を分解、再構築しているのです。
この姿勢において中山康樹は、信頼に足る音楽批評家であり続けたのでした。
これからボブ・ディランを聴いていてみようという方にはこの本、正直にいえば御法度です。
ボブ・ディランなんて大したことないと勘違いされないためにも、この本は、ボブ・ディラン上級者編として棚の奥に隠しておきたい。
それに変わってというわけではないですが、私が個人的に聴く気にさせる中山康樹の音楽本として、中山氏最晩年に病床の中で書かれ死後出版された『ウィントン・マルサリスは本当にジャズを殺したのか?」をお勧めします。
日本のジャズ通からなぜか嫌われている?この天才トランペッターであり音楽家を再評価させてくれる1冊です。
特にマルサリス初期アルバムの素晴らしさをが綴られるくだりは、すぐにでもウィントン・マルサリスのデビュー盤「ウイントン・マルサリスの肖像」と「BlackCode」を聴かなければいけない気にさせてくれます。
音楽は、、聴くだけのものではなく、読む愉しみもあることを教えてくれた中山康樹氏、死してなお音楽を愛するものにその喜びを与えてくれるのです。
『ボブ・ディラン解体新書』
著:中山康樹
廣済堂新書
『ウィントン・マルサリスは本当にジャズを殺したのか?』
著:中山康樹
シンコーミュージック・エンターテイメント